1970年の種痘禍は訴訟に発展しました。
この流れの口火を切ったのは小樽訴訟です。

1.小樽訴訟・その1
• 1970年に提起
‣ 生後6ヶ月男児が種痘により下半身麻痺と知能障害を発症
‣ 1982年(第一審)被害者勝訴
‣ 1986年(控訴審)被害者敗訴
• 1992年:最高裁で判決破棄・差し戻し
‣ 事実上、国の敗訴

生後6ヶ月男児が種痘により下半身麻痺と知能障害を発症し、1970年に提起されました。
1982年の第一審では被害者勝訴、1986年の控訴審では被害者が敗訴し、1992年の最高裁では控訴審判決を破棄し差し戻しされました。その理由として「特段の事情がない限り被害者は禁忌者に該当と推定すべき」という文言があり、事実上、国の敗訴となりました。

1.小樽訴訟・その2
• 判決のポイント
 ‣ 健康被害者は禁忌者に相当する
 ‣ 接種医が禁忌者を見逃した
 ‣ 国は禁忌を予見する情報や予診の機会を十分与えなかったため、国の責任である


2.東京集団訴訟・その1
• 1973年:26(後に62)家族により提起
 ‣ 対象:種痘・インフルエンザ・ポリオ・百日咳・日本脳炎・腸/パラチフス
 ‣ 1984年(第一審)原告勝訴(損失補償論)
• 1992年(東京高裁)厚生大臣の「施策上の過失」と認定→ 上告断念

小樽訴訟に続き、1973年に東京集団訴訟が提起されました。
これは単一のワクチンを対象としたものではなく、いろいろなワクチンの副反応被害者が団結して起こした訴訟です。
1984年の第一審は原告が勝訴し、1992年の東京高裁では厚生大臣の「施策上の過失」と認定され、国は上告を断念しました。
これは大きなできことでした。
副反応の存在を認めただけでなく、国が副反応のあるワクチンを謝って使用したという責任論が初めて言及されたことになります。

2.東京集団訴訟・その2
• 判決内容:禁忌に関する行政責任
‣ 予診など集団運用の不備
‣ 医師に対する副反応知識の周知不徹底
‣ 一般国民への周知不徹底
• 「不適切に行ったから事故が発生した」と行政責任に言及

東京集団訴訟の判決内容は、接種禁忌事項に関する行政責任を問いかけました。
予診など集団運用の不備、医師に対する副反応知識の周知不徹底、一般国民への周知不徹底などが指摘されました。
この訴訟で初めて「不適切に行ったから事故が発生した」と行政責任に言及しました。

3.その他の訴訟
• 1993年:名古屋訴訟で和解成立
• 1993年:大阪・福岡で原告勝訴

そのほかにも、各地の予防接種禍訴訟で国が負けるという事態が相次ぎました。

感染症対策重視が糾弾された政府は予防接種制度の見直しを迫られました。